前提が共有されていなければ、あらゆる対話は「意見の見本市」に終わる。
話の大前提を常に共有する「習慣」をもつ。
弊社主催の連続クラスやコソ練SNSは、日ごろの体験や心模様、今向き合っているテーマや課題、本当に望む人生について、話をし、聞く場です。
クラスもコソ練SNSも、自分一人では体験できないことを他の誰かの体験から見せてもらうために、一緒にいるわけです。
不思議なもので、同じ体験をしていても、それが他の人のことだと、びっくりするくらい客観的に事態を把握できます。
そうやって見てとった本質を自分の人生にフィードバックさせて、都度、生き方を問い直す。
そのプロセスを、他の誰かに見せる。
この繰り返しで、互いの生き方を育てあうことができます。
◇-----------◇
このプロセスを可能にするのは、人生に対する大前提の共有です。
何が問題で、何が問題でないのか、
私たちが時間を使うべきは、どこなのか、
本当に見たいものは何なのか。
根本的な大前提が共有されているからこそ、一人一人の体験の違いが価値に変わります。
それぞれが見た違う世界を分かち合う意味が生まれます。
逆に言うと、そうした大前提を意識的に共有しないまま、言いたいことを言い、人の話を聞く場は、「意見の見本市」のようなものです。
ニュースサイトやポータルサイトのコメント欄がいい例です。
「意見の見本市」で得られる体験は、
「あ、あなたはそうなのね」
「へえ~いろんな意見があるんだ~」
といった見聞です。
そうやってある程度の距離をもって関われるのなら、見聞から受け取れるものがあるかもしれません。
◇-----------◇
一方で、私たちは無意識でいると、自分自身と相手が、本当は何を意図しているのかよくわからないまま、それぞれに「よかれ」と思うこと、「こうすべきだ」と考えていることを繰り返します。
「相手も当然同じだろう」と考えて、よく確認せずに、ものを言ったり、働きかけたりすることもあります。
根本的な意図を共有しないまま誰かと関わっていくうちに、持論のぶつけ合い・いちゃもんのつけ合いに発展することもあるでしょう。
それを対話・会話・議論…と呼び、価値を見出す人もいます。
私は、そんな上等なもんだろうか?…と思っていますが(笑)
何に価値を見出すかは、それこそ、人それぞれなのだと思います。
ちなみにこうした現象は、ネットのなかだけでなく、目の前の日常、職場やプライベートでの人間関係でも、フツーに起きうることです。
ふと気を抜くと、「意見の見本市」がはじまっています。
今話しているテーマや、今この瞬間の場の流れを意識していないために、職場やコミュニティのミーティングが、「意見の見本市」と化している場合もあります。
◇-----------◇
「意見の見本市」は、よほどそれが好きな人ではない限り、長い時間見ていられるものではありません。
私たちは心の底で、それが何も生まない、と知っているからです。
職場での人間関係や、家庭・プライベートでのおつきあいが、定常的に「意見の見本市」になっている場合、互いのつながりは自然に、希薄なものになっていきます。
「話しても仕方ない」と感じた途端、悪者探しや正解争いの種を残したまま、無言の休戦状態に移行することも珍しくありません。
職場や家庭では、結構ありがちな事例かと思います。
それは一見、大人の対応です。
しかし、「どちらが正しいのか?」という問いを心のどこかに隠し持ったままでは、その関係に真の平安が訪れることはありません。
◇-----------◇
私は常々、クラスやSNSが単なる「意見の見本市」にならないよう、気を配っています。
「意見の見本市」化をふせぐ基本姿勢が、話の大前提を共有する「習慣」であり、大前提のよりどころとなるのが弊社制作の教材群です。
教材を読み返すことで、話の大前提を、客観的に、目と耳を使って確認することができます。
少し離れたところから大前提をとらえる、という距離感が、意外と効果的だと感じています。
意図や思いをこめて自らの言葉で語りかける場面と、一歩距離をおいて原理原則を一緒に確認する場面、両者を使い分けることで、コミュニケーションの質は格段にあがります。
人間関係を育むスキルの一つとしてほんの少し意識してみると、自分と誰かの違いが生む価値に、改めて感動できることと思います。